るちるの雑多ブログ

〜テキトウに〜

父との繋がり

 

父が亡くなって

もう少しで8年が経つ。

 

 

私は自他ともに認める母親似で

小さい頃から『お母さんにそっくり』

としか言われたことがなかった。

 

もちろん外見だけでも

細かいところで

「ここは父親からだなぁ」と

思うところはちらほらとあるのだけど

パッと見やら雰囲気やらは

どうにもこうにも母親似で(笑)

 

そんな中で一度だけ

『父にそっくり』と言われた時がある。

 

奇しくも、それは

父の葬儀でのことだった。

 

 

 

有り難いことに

会社の方たちが大勢ご列席くださり

母と二人、ちょっと呆然としたほど…

 

母と私と忙しく動く中で

最後まで残ってくださっていた

父と同じ部署の方たち。

 

たまたま部屋に

私とその部署の方たちだけになった時

向こうから話し掛けてきてくださった。

 

『〇〇さんの娘さんですか?』(〇〇は名字)

 

喪主はもちろん母なのだけど

私も施主として腰に喪章を着けていたので

話し掛けてくださったのだと

最初は思っていた。

 

父の部下で大変お世話になった…

厳しいが優しく、よく笑ってた…と。

 

家に居るときはとことん厳しく

あまり笑わない人だったので

父の意外な一面を垣間見た気がして

驚きと嬉しさと、切ない思いで

心が一瞬でいっぱいになり

涙が出そうになった。

 

 

列席いただいたこと、お話くださったこと

全て含めて

ただただ『ありがとうございます。』と

言うことしか出来なくて…

 

そしたら、ふと

『やっぱり…笑った顔が〇〇さんそっくり』

 

なんだか、すごく嬉しいけど

初めてのことに照れくさくなった(笑)

 

それに今度は、本気で泣きそうになった。

 

必死に堪えたつもりだけど

たぶん、今にも涙が溢れるんじゃないかって

くらいにはなってたと思う。

それくらい視界がどんどん歪んでいった。

 

 

初めて父に似ていると言われた…

父の、葬儀で…

 

喜びと悲しみが一気に押し寄せる。

 

 

後から思えば『やっぱり』という言葉から

似ているから声を掛けてくれたのだと

思えなくもない。

 

(細身の父とは体型が違いすぎるけど)

なんだ、顔は似てたりするのか…と

なんだか父を近く感じた。

 

 

今も、父ともっともっと

仲良くしていれば良かった。とか

たくさん話をしておけば良かった。とか

後悔ばかりが浮かんでくる。

 

たくさん嫌な面も見てきたけど

思い出すことが多いのは

優しかった時、笑ってる時、頼もしい時…

そして

病床で最期が近付く中で

父は意識も無いのに

たくさん会話しているような

不思議な気持ち、空間に満たされていた時…

 

 

きっと今も、父は

私たち家族を愛し、心配し

ただ不器用さゆえに

「しっかりしろや〜!」と

怒ってるに違いない(笑)

 

 

たまに夢に出てきてくれる父は

思い出の中の父と変わらない姿で…

 

夢で会えることが嬉しい反面

 

あの時から、ずっと

歳をとらないことが切なかったりします。

 

 

 

変わってる…?

 

明けましておめでとうございます。

本年もゆるりと、よろしくお願いいたします。

 

 

さて、またヅカ話。

色々と考えてたら…やっぱ自分

宝塚のファンとしても

変わってるんやない?と思いまして。

 

 

最初に考えたのが↓コレ。

 

好きなればこそ、弱い部分や

ダメな部分を理解し認めた上で

それでも応援したい派…なこと。

 

はっきり言ってしまうと

現OGの贔屓はお歌がダメでした。

下手というより声質(?)が特徴的で…

たぶん音は外してないんですけどねー

(特に)男役としては微妙だったと思ってます。

 

※卒業後のファンミやミニライブなどで

歌を聞くと「やっぱり弱い…」とは思いつつも

気持ちがスゴくスゴく込もっているので

毎回、本当に毎回泣かされてます!

 

 

贔屓目でも、甘々に見ても、お歌はダメ…

芝居はやや弱い…ただダンスは上手い!!

単純に、私はその人に惚れた。それだけ。

下手だとか弱いと言われる部分を

否定しないし、ていうか出来ないし

むしろしようとか思わなくて。

『そうなんですよ…』

『でも、私は大好きなんですよね〜』

っていう感じ。

 

お歌が…芝居が…ダンスが…って言われて

本人比では上手くなった!とか

頑張ってますから!と

下手に擁護するのでは無く…

(努力を認めた上で!)

『そうなんですよね〜』って言えたら

変な歪みも無くなるだろうに、とか。

 

 

そこから更に考えたのが↓コレ。

 

人間なら誰しも

『生理的に無理』って

あるもんじゃないです…?

 

タカラジェンヌだって

職業柄(?)はフェアリーですけど

中身はやっぱり人間ですから…

 

私の大好きなあの人やこの人や

どの人にだって、苦手に思ったり

無理だな…って感じたりする人(ヅカファン)は

必ず居るだろうってこと。

 

歌、ダンス、芝居のクセであったり

声質やメイクなどなど

『無理だ…受け付けない…』なんて

あって当たり前だろうと。

 

 

私は宝塚が大好きだし

ジェンヌさんのことは

皆さんを応援しています。

 

…が!

 

正直に…いや、ぶっちゃけて言えば

苦手な人が居ない(居なかった)訳では

ないのですよねぇ…。

 

だからっておおっぴらに

声高に表明したりはしませんが。

 

一つ、特定の人では無いところでは

…私は『雪組歌唱』が苦手でした。

 

 

ま、例えるなら

今の私が非の打ち所が無いよな〜

と思うジェンヌさんの一人に

こっちゃん(礼 真琴)が居ますが

きっと“世の中”には

苦手に思う人も居るでしょう。

 

でも、それは仕方ないというか

本当に当たり前のことで。

 

詰まるところ

『自分がその人を大好き』なら

それだけで十分だな、って。

 

もちろん同じ思いを共有したり

共感できる人もたくさん居て

その言葉や思いの中に浸って

幸せを噛み締めてますし

そういうのはスゴく有り難いです。

 

でも

 

たとえ同じジェンヌさんを好きな誰かの

ブログでも呟きでも

ここは同意!

でも、ここは……。

って思うことがあって当然というか

 

惚れポイントって

人の数だけあると思ってるんですよ。

 

でも、それで良くない?って…

『結果、自分は好き』なら良くない?って…

 

 

応援の仕方、好きの表し方も

出来る範囲も人それぞれですし

 

(誰かの)どこかに『好き』と自分が

思えているなら、それで良いんじゃない?

 

とか、思ったりなんだり…

 

 

なんか纏まらなくなっちゃった(汗)

 

とにかく『自分が誰か(何か)を大好き』なら

そして、その気持ちを共有して

共感し合える人が一人でも居るなら

それだけで十分じゃないかと思うし

(寂しいけど居なくても良いし)

わざわざ嫌いor苦手な人を出してまで

好きな人を上げる必要はないし

誰かの好き嫌いに無理に干渉しなくて

良いんじゃないかなぁ、と。

 

 

私は自分が大好きな人には

私なりの、私に出来る範囲の応援を

黙々としていくだけ。

 

自分が好きなら、それで良いやん- ̗̀( ˶'ᵕ'˶) ̖́-

 

 

 

2018年、締め。

今年の前半と後半で

自分の周りと自分の内面との両方に

なにかと変化があった一年でした。

 

お陰で、ある意味では

とても充実しているのだけど

久々に(?)目まぐるしくもあった気がする。

 

 

6月に愛猫の内の一匹が亡くなるまで

一昨年の末から闘病が始まって以来

とにかく看病&看護&介護な日々で

 

愛猫が落ち着いてる時には

稀に観劇に行ったりもしましたし

Twitter含めネットを彷徨いたりもしたけど

 

やっぱり、どこか

『心ここにあらず』だったのかな

 

宝塚も情報収集はしていたけど

観劇に行く!とまではなれなかったり…

 

そこから、つくづく思ったのは

好きな物事=熱中できる物事

すなわち『心の逃げ場(拠り所)』は

多種多様にあると良いってこと。

 

猫さまから目が離せない時期は

どうしたって観劇に行けない。

でも、そのことに苛ついたりなんてしない。

悲しくなったりもしない。

 

もちろん、その時は

猫さまのそばに居ることが、一番の幸せで

あたたかい時間だから…なんだけど。

 

猫さまのそばに居ながらだって

好きな物を見たり幾らでもできるから。

 

TVで海外ドラマ見たり、スカステ観たり

SNSで観劇レポ見漁ったり。

寝てはならぬ!な時期は

YouTubeの強震モニタの生配信を

延々と見てたりした。

 

 

その猫さまが亡くなってからは

現実逃避が激しかったけど(今もかな…)

その時も好きな物事が助けてくれた。

 

沢山の手段や場を持ってるほうだと思うけど

それでも、まだ知らない物事ってあって

それをやってみたりして(ツイキャス)

 

今はまた少し頭と心に

隙間や余裕が失くなってて

出来ないでいることも多いけど…

 

一番は、やっぱり私の中の拠り所

救いの頂点は『宝塚』なんだなぁ、って

そんなことを再認識したりした。

 

ライビュには初ぼっち参戦したり

舞浜まで意を決して参じてみたり

 

お陰で、またフツフツと

宝塚熱が湧いてきたりして

それと同じくして"生きる気力"なんかも

取り戻せた気がして…

 

 

なんだかんだ

自分って幸せなんやなぁ、って。

 

ちょっと一昨日くらいから

なぜか感傷的になってるんだけどww

たまには、そういう日もあって良き…と。

 

笑って、泣いて、怒って…

それが人生ってもんよ〜って楽しんで。

 

少しずつでも変わりたいな…というか

変われるような気がする…?

 

なんか、いつか振り返った時に

また転機になったなと感じるような…

色々、ぎゅぎゅっと詰め込まれた

一年だったように思います。

 

来年は変わりたいところと

変えたくないところを大切に

久しぶりに『宝塚愛』を爆発ぎみにw

私らしく過ごせたらと思っとります。

 

激しくコミュ障な、こんな私ですが

来年もよろしくお願いいたします(*ᴗ͈ˬᴗ͈)⁾⁾⁾

 

2018年…今年もありがとうございました!

 

 

続・無理せず頑張る。

 

『無理せず頑張る。』

 

これは普段

意識するようにしてますってお話し。

 

どうしたって“無理”をしなきゃいけない…

そういう時ってあります。必ず来ます。

 

でも、普段から「頑張る」を通り越して

“無理”することを当たり前にしてると

その、肝心の

『ちょっと無理しなきゃいけない時』に

少しの無理も利かなかったり

ダメージが尋常じゃなかったりします。

 

だから

 

普段から無理するほど頑張らない

少しの頑張りでも認めてあげる

無理はしてない?って自分にも聞く

 

これを意識すると、変な肩の力が抜けて

適度に出来るようになったり

気持ちが少し軽くなったりするんですよね。

 

ってのが前回の記事の補足。

 

 

無理せず頑張る。

私の座右の銘じゃないけど

肝に銘じてることの一つ。

 

私は、一般的に「普通」と言われること

どんなに些細なことでも

頑張らないと出来ません。

 

だから自分に、自分では

『頑張れ!』って言います。

 

ただ、無理はしません。

ていうか、無理できません(笑)

 

頑張らなくて良い時や場合は

もちろん沢山あって、頑張らないこと

逃げることってスゴく大切です。

だけど、私みたいに

頑張らないと日常を送れない人は

頑張るしかありません。

 

でも、無理はしちゃダメなんです。

 

「頑張ること」と「無理すること」は

全く違うことだと思っていて

頑張ることは、時に必要だけど

なるべくなら

無理はしない方が良いと思ってます。

 

だから『無理せず頑張る』んです。

 

頑張らないこと、逃げること

これも勇気やパワーが必要だったりします。

 

逃げることを頑張らないといけない

そんな時もあったりします。

 

そういう時も、頑張りはしても

無理はしないのです。

 

 

『無理せず頑張る』

 

 

これが意外と難しいんです…

でも意識するだけで違ってきます。

 

自分に時々聞いてみたりします。

『頑張ってるね✨…でも、無理してない?』

 

頑張るって悪いことばかりじゃない。

良いこともあるんです。でも

“無理する”はあまり良いこと無いんですよ。

 

だから…

頑張るのは良いけど無理しないでね〜

って、自分にも周りにも

思ったり、言ったりしてます。

 

『無理せず頑張る』

 

少しでもコレを

考えたり、意識したりすると

ちょっと楽になります(*´꒳`*)